キチガイを確かめに行く
渡部剛己率いる体現帝国が「不安」をテーマにした作品を上演するらしい。
渡部氏と知り合ってまだ一年も経っていないのだが、渡部氏が不安そうにしている姿を見たことはない。
それなのに「不安」をテーマにした作品を作るという。
いや、ちょっと待て。もしかしたら不安そうに見えないのは主宰として去勢を張っているだけで、本番前は緊張のあまりトイレで吐き、夜は毛布にくるまってガタガタと震えているのかもしれない。
もうひとつの可能性として、不安を感じないがゆえに不安を感じやすい人や事象、ひいては不安そのものに興味を持ったのかもしれない。
どのような理由であれ、今の日本社会には正体のよくわからない「不安」が渦巻いていることは間違いのない事実だ。だからこそ「不安」をテーマとした作品を作る価値があると思うし、そのような掴みどころのない、漠然としたテーマに恐れることなく斬りこんでいく渡部氏と体現帝国の国民たちを、キチガイ集団であると思わずにはいられない。
突然だが、僕にはキチガイを語る資格がある。
血族に何人もキチガイがいるからだ。
統合失調症(分裂病)、双極性障害(躁うつ病)、極度のヒステリーなど、さまざまな精神病者の血を引いているのが僕だ。
遺伝的発病確率でいえば、僕が何かしらの精神病を発症する確率は五十パーセント以上。精神病が遺伝性質の強い病気であることにはエビデンスがある。
これが乳がんだと「予防的手術」することができるが、脳みそだと「予防的手術」をすることができない。まあ、昔は精神病者にロボトミー手術が認められていたけど、それはまた別のお話し。
悲しいかな、この国には「当事者じゃない奴がその問題を語るな」という空気(あえて空気と言う)が存在している。物書きの世界でも「身内に障碍者がいない作家は作中に障碍者を出してはいけない」などと言われる(絶対書けないわけではないが)。
幸か不幸か、僕は身内にキチガイがいるので、胸を張って「キチガイ」の話ができるし、「キチガイ」に「このキチガイが!」と言える。
キチガイの血を引いているがゆえに、精神病や心理学に強い関心を持ち、その手の本を好んで読み漁った。また、発症する可能性が高いので、精神のフィードバックを常にかけ、自己分析を日常的に行う習慣をつけた。戻ることができなくなるほどの「狂気」に足を踏み入れないように心がけて生きてきたつもりだ(その証拠にまだ人は殺していない)。
それなりに社会経験を積み、いろんなことを知れば知るほど「自分は正常である」と思って生きている人の多さに愕然となった。何が正常で何が異常かもわからないのに、どうして自分が「まとも」だと言えるのだろうか。
認知科学や神経科学が発達し、人々が見ている世界が同じではないというデータが次々と出てきている。『レナードの朝』の著者、オリバー・サックス氏の著作には、そういった事例が詳細かつわかりやすく書かれている。
味覚はもとより「幻視」「幻聴」「幻臭」と、多くの人間がいわゆる「正常」とは違う感覚の中で生きている。人類全員が同じものを美味しいと思い、同じ風景を見て、同じ音を聞き、同じ匂いをかいでいるわけではないのだ。
では「正常」と「異常」をどうやって判断すればいいのか。
今のところ「比較」することしかその方法はないようだ。
キチガイも無人島でひとりだったらそれが正常だし、ブスも世界に女がひとりしかいなければ絶世の美女だ。比較対象がいてこそ「正常と異常」「美醜」の判断ができる。
ここでまた話がカーブする。
僕が演劇に魅力を感じる大きな理由のひとつが「舞台は嘘でできている」ということだ。
舞台というのは全てが虚構であり、役者の演技も乱暴な言い方をすれば「嘘」である。ハリボテの装置がお城に見えたりするし、役者の口から出る嘘の言葉に客は一喜一憂する。舞台のなかで「唯一の真実」は「役者の肉体」だけだ。だから舞台は役者のものであると思っている。
では、役者だけが嘘をつくのかと言えば、そんなことはない。人は生きていくなかで、数えられないほど嘘をついている。それも無意識に。
例えば、高血圧の薬を例にしてみると、偽薬なのに飲んだ瞬間、血圧が下がる人が多数いる。高血圧薬以外でも、「薬を飲んだからきいている」と思い込み、きいてもいないのに効果が出る人が多数いることがわかっている。僕からすると、これも演技みたいなもんだ。薬という役者の嘘に、心どころか体までも操られてしまっている。
突き詰めていけば「演技」と「本心」の境目など曖昧模糊としたものなのだと思う。
舞台の上で繰り広げられる虚構が人の心を動かすことに、僕はゾクゾクする。逆説的に、虚構でしかない舞台の世界では、リアリティを積み上げて作品を作ろうとしてもいいものはできないと思っている。
とても乱暴な言い方だが映像作品は「リアリティの中に虚構がある」ものであり、舞台作品は「虚構を積み上げてリアリティを作りだす」ものと思っている。
スマホを一度も見ない日などない現代社会において、この「リアリティの中にある虚構」が支配的になっている。
仮想現実がそこかしこにあり、SNS上に飛び交う言葉も嘘か演技なのかもわからない。
そんな世界では比較対象すらも曖昧になってきてしまう。少なくとも、そうなっているように僕は感じている。
明確な「狂気」がなければ「正常」を感じることもできない。だから、大多数の人が胸の内に漠然とした不安を抱えながらも、どうしていいのかわからずに生きているのかもしれない。
体現帝国はキチガイ集団であり、その作品にはたっぷりと狂気が含まれている。
それだけは確信をもって言うことができる。
現代社会において、これほど明解な「キチガイ」を目にできる機会はあまりないだろう。
「比較」によってしか、物事の尺度は決められない。
自分が狂っていないかを確かめたいのなら、体現帝国を観に行くべきである。
運がよければ、自分の胸の内に巣食う「不安」の正体もわかるかもしれない。
そして不幸にも、観劇後に自分が狂っていることに気づいてしまったのなら、体現帝国の扉を叩くしか道は残されていないだろう。
もう正常には戻れないのだから……。