―あなたを本当に監視しているのはいったい誰なのか?
イヨネスコの『授業』を、“監視”という言葉をキーワードに読み解き演出する。これは思いつかなかった。これはかなり射程の深い演出プランなのではないか?
監視。あるいは学校と教育。というとミシェル・フーコーが主著『監獄の誕生』でそれを転用し社会のシステムとして管理、統制された環境の比喩として用いたことで有名になったパノプティコン(全展望監視システム)を想起してしまう。
パノプティコンの比喩を用いてフーコーが描こうとした現代社会“システム”のその眼目は、監視が他者の視線の内省化にあるということ、つまり現代で最も有効且つ根の深い監視システムは個人の内側に我知らず内面化されているそれ(=自己検閲)なのだ。というところにある。そのことを考えると、例えば一つ、イヨネスコ『授業』の劇中盤で何故、唐突に生徒が「歯が痛い」と訴えだすのか? というこの『授業』という戯曲の最大の謎の一つに対する解の一端が垣間見えるような気がする。
前置きが長くなった。何の話かというと劇団体現帝国の東京での初めての公演『授業』についての話だ。
演出は渡部剛己。渡部と僕とのつきあいは実は随分と古く、彼がまだ名古屋にいたときからのつきあいで、それが、しかし先日2017年5月11日(木)、中野テルプシコールで行われた体現帝国『授業』の試演会を観たのが、僕にとって彼の演出作品を観た初めてのことで、そもそも僕は彼に是非にと請われ、今回は半ば冷やかし気分で観に行ったようなものだったのだけれどこれが、そう。予想を裏切って良かったのだった。
彼が“監視”ということ/事態に関心を持ったのは、このSNS全盛の時代、誰もが己れの欲望を他者の欲望にすり替えて、あるいはすり替えさせられているこのなかで、彼もまたやはりこの状況に相当の警戒心や危惧、云い様のない不安感を抱いているらしく、そしてそれを「一人ひとりの市民が相互に監視しあっている社会こそが今のこの現代社会なのではないか?」と読み取ったからであり、その読みをあのイヨネスコの晦渋というかナンセンスで不条理な『授業』という戯曲にぶつけるというのは、先にも述べた通りかなり良い戦略なんじゃないか、と僕は率直に思ったのだった。
もちろん試演会での上演にはまだまだ粗が目立った。俳優は素晴らしかった。だが演出が一つことに的を絞り切れていなかったように思う。稽古場で発見し面白いと思ったものを捨て切れず、それらを全部、てんこ盛りに舞台に乗せようとしていたかのように見受けられた。
しかしながら、この3月からずっと2か月以上、ああでもないこうでもないと俳優スタッフ共々侃侃諤諤と稽古をし、試行錯誤を繰り返しながら今回の試演会を経てそしてさらにここから一ヵ月以上集中的に稽古をして6月下旬の本番の舞台にそれを乗せる、なんていうのはいやはや、この効率重視の今日日に流行らないというかいや違うのだ率直に言って実に羨ましい限りに贅沢なことでだからきっと本公演ではもっとずっと良いものを見せてくれるんじゃないか、と僕は期待している。
出来ればここから先は足し算ではなく引き算で、一点突破で演出の中心をキリキリと絞り込み、観客の心と身体の真ん中をズバリと貫いて欲しい。久方ぶりの体現帝国の本公演、拠点を愛知から東京へ移し、2017年に再始動して初めての東京でのこの公演に、僕は期待している。みなさんにもぜひこれを見届けて欲しい。
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